パチンコ屋さんの景品買取所うんちく その11「昔話」
元パチンコ店員、元パチンコ店店長、元パチンコ店運営会社の部長という経歴の行政書士である私が、気が向いたときにパチンコ店の裏話的なことを書くコーナーです。
今日は昔話をしましょう。
私の実家の稼業は、パチンコ屋でした。
「でした」なので、過去の話です。
今は違います。
いつからそうだったのかはわかりません。
終わりははっきり覚えています。
私が9歳の冬です。
私の記憶にあるのは、2つのお店です。
1つは、ものごごろついた時にはお店の2階に住んでいたA店。
家がパチンコ店なので、店の中や駐車場で遊んでいました。
もう1つは、7歳から9歳までの間に自宅から毎日通ったB店。
学校から自宅に帰っても、家族は全員お店に関わっており不在なので、誰かが迎えに来て、夕方からずっとお店で過ごしていました。
当時、その地域において、三店方式がどのようになっていたのかわかりませんし、今や知る由もないですが、そのお店での景品買取所は次のような感じでした。
A店では、お隣が整備工場を営んでおられました。
そこのお子さんと私は仲良しでしたが、A店の駐車場に隣接したその工場の一部分が景品買取場になっていました。
こちらが借りていたのか、工場に買取業務を委託していたのか、わかりません。
もしかしたら、こちらが建てさせてもらったのかもしれません。
そんな感じです。
B店では、駐車場の敷地内に自分たちで建てた小屋、高床式住居みたいな小屋を建てて、そこを買取所にしていました。
B店では、本当に稼業というか家業のような形でしたので、
父=オーナー兼店長
母=景品カウンター
祖母=景品買取所←これ
でした。
私はおばあちゃん大好きだったので、小学校が終わってからお店に来た後は、ずっと景品買取所の中でおばあちゃんと過ごしました。
木とガルバリウム鋼板の波板だけで作った掘っ立て小屋で、部屋の中は寒かったのですが、コタツでぬくぬくと、ガンダムのプラモデルを作っていた記憶があります。
こういう生活を2年ちょっと続けていたと思います。
写真はイメージですが、こういう感じの小屋でした。
むかし、むかしのお話でした。